命日は特別な日ではない
昨日は母の4回目の命日でした。
今年は覚えていましたが、思い出したのは妹や叔母(母の妹)から
連絡があったから。
そうでなければ、今年もごく普通の一日として過ぎて行ったでしょう。
去年も命日を忘れて、夫に言われて思い出したくらいです。
命日は私にとって特別な日ではありません。
母が亡くなったのは2016年。まだ4年しかたっていないので、忘れ去るという程には
日にちがたっていません。
毎年思うのは、母は子どもたちがめそめそ泣くよりも健康で幸せに生きて
くれるほうを喜ぶはずだと。
いつまでも泣かれるのは嫌がる。絶対に。
確信できるのは、母が生前こう言っていたからです。
それは、母が末期がんでもう半年ももたないと宣告されてからです。
誰もが死ぬし、いつか親は死んでいくと頭ではわかっていても、
どこかで自分の親は死なないと思ってしまうところがあって、
母の死が現実となってからは怖くてたまりませんでした。
恐怖と寂しさとで母の前で泣いてしまったら、こういわれました。
「泣くんじゃない。私は自分のことだけど、泣かない」
その言葉を聞いたとき、また涙が出てきました。でも堪えた。
私は何も返せませんでした。
本当は母本人が一番怖かったはず。抗がん剤の副作用もあり日々体調が悪化し、
昨日できたことができなくなっていく。悔しかっただろうし怖かったと思う。
でも、子どもの前では最後まで強い母親であろうとしていた。
だから、命日に悲しむことは望んでいないんです。
笑って家族で楽しく食卓を囲むことを望んでいるはず。
来年の命日、またうっかりするかもしれませんが、
お花を飾り、笑って過ごします。それこそが一番の供養です。
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